六代目ブログ

味噌六太鼓

伝統発信ブログ

話は150年前にさかのぼります。

こんにちは六代目彌市です!

先日3月6日は、

3と6で味噌六の日!!

 

という事で、

昨年に引き続き

 

これからいよいよ始まります

「味噌六」3号!作りに向けて♬

 

決起集会!大交流会が開催されました!

あれよあれよという間に

3号機!

 

あれよあれよと言う間に

3年目の味噌六!

 

改めて先日の交流会に参加していただいた

方々の顔を見ていて、

 

3年前まで何のつながりもなかった

地域の方々と「深い」つながりが作れたこと、、、

これはとんでもない人生の「宝」だなぁと

改めて実感しています。

 

そして、

 

その味噌六が生み出した「輪」が

今、少しずつ地域の枠を超えて

 

広がりだしています。

 

またその味噌六から広がった

新たな「つながり」については改めて

みなさんに紹介していきたいと思いますが

 

今日は、3年目の味噌六を前に

 

なぜ??

「味噌六」が生まれたのか?

 

そう訪ねられる機会が増えてきたので

あらためて未来への「記録」として

 

「味噌六誕生の秘話」をお話ししたいと

思います。

 

実は、味噌六はポッと思いついて

この世に生まれた訳じゃないのです。

 

話は150年前までさかのぼります( ;∀;)

よって、

今回のお話はとても長い物語になりますが

 

お時間ある時にゆっくりと

読んでいただけましたら幸いですし、

 

きっと、そこから

改めて何か感じてもらえる事があるんじゃないかなって

思ってます。

 

講演で話をしたら2時間コースの内容を

凝縮してお伝えしたいとも思います。

 

味噌六誕生の秘話スタートです。

 

第1章 三浦太鼓店のあゆみ

話は150年前にさかのぼります。

 

私は先祖代々太鼓屋をしております

三浦太鼓店の六代目彌市と申します(^^)

 

ってもう知ってますかね↓↓

これが初代の唯一残っている写真です

初代は今の豊田市出身。

豊田スタジアムがある北側に

「寺部」という地域があるんですが、

 

そこが、三浦太鼓店のルーツです。

 

今でこそ世界の「トヨタ」。

 

でも、150年前の当時の豊田というのは

城下町「岡崎」とは違ってとても田舎だったので

 

岡崎に出て「商売」をはじめるということは

今の私たちが東京に出て一発がんばるぞ!

 

という、そんな感覚に近かったんじゃ

ないかなって想像します。

 

自分たちのルーツを知る方法と言うのは

いくつかあるんですが、

 

その最大の方法がコレです↓↓

胴の中に書かれた初代の記録↑

太鼓と言うのは、必ず

作った時にその胴の中に

 

作られた日にちや

どこの太鼓屋さんで作られたのか?

 

誰が作ったのか?

誰が協賛して作られたのか??

 

など、など

様々な「情報」が残されているんです♬

普段は、太鼓って皮が張られた状態ですから

一般の方は、なかなか胴の中を見るって機会もないと思うんですが

 

我々は、仕事柄

修理でお預かりした皮を外すことで、

 

その太鼓の「歴史」を知ることができるのです。

初代が店を構えた当時は、

記録にあるように三浦太鼓店は

 

「三河國岡崎横町」という場所にありました。

 

「横町」という地名は

今の岡崎市の中にはありません。

 

明治から大正に変わるときに

この横町という地名から「本町」という地名に

変わっているのです。

 

三浦太鼓店の場所が移転したわけじゃなく

大正時代に入り「岡崎市」となったことで

 

横町から→本町へと地名が変わったのです

それが分かる記録がこれです☟

大正に入って岡崎市になり、「横町」から「本町」へと↑

約150年前のこの当時は、

やはり商売の先見の目を持って岡崎の城下町へ

来ていることもあり、

 

大変繁盛して職人も何人も雇って

大きな太鼓屋さんだったと聞いています。

 

それが

昭和初期に入り、

本町から→八幡町へと移転しています

もうすでにこの頃には

戦争や、震災

 

この地域で言うと

三河大地震や伊勢湾台風などの

社会的な大きな災害も重なったこと、、

 

2代目以降の商売が

上手くいかなかったことが原因で

 

三浦太鼓店の仕事は

激減しており、

 

先日亡くなった祖母の夫である

先々代の私のおじいちゃんの時代は

 

商売も、社会的にも非常に伊比氏井時代でした。

先々代のおじいちゃん↑

また、おじいちゃんは

身体があまり丈夫な人ではなかったこと、

 

それに加えて、

商売が上手じゃなかった事もあり

 

親父は子供のころから

大変苦労して育ったと聞いており

 

病気がちだったおじいちゃんの代わりに

幼いころから太鼓屋の仕事を手伝って育ち、

 

中学にあがるころには

太鼓屋のほぼすべての仕事ができるまでに

幼い頃の五代目↑↑

なっていたそうです。

そんな親父が高校一年にあがる頃に

3か所目の移転となる

 

今の六供町の三浦太鼓店へと

移り住むことになるのです☟

今の三浦太鼓店は3店舗目↑↑

私が生まれたのも、

この三浦太鼓店のすぐ隣にある

6畳一間の借家で、

 

三浦太鼓店の店にはおじいちゃんと

おばあちゃんが住んでました。

 

もの心ついたときには

すでにおじいちゃんは「がん」で闘病しており

 

おじいちゃんが太鼓の仕事を

している姿を見たことは残念ながらありません。

 

そんな時代だったので、

親父は地元の岡崎北高校を卒業と同時に

 

5人の子供たち家族を養うために「太鼓屋」という

選択肢ではなく「会社員」をしながら

 

土曜と日曜の休みの日に

かろうじてポツポツあった

 

この三河地域の祭りで使われる

太鼓を作らせてもらいながら

 

なんとか受け継がれた「伝統」を

つないでいる状況でした。

私は、5人兄弟の次男坊なのです。

 

普通こういう伝統的な商売というのは

「長男」が後を継ぐのが当たり前。

 

そう思われて当然なのですが

私は次男坊です。

 

私達が子供の頃、

親父は「太鼓職人」という印象ではなく

 

あくまでサラリーマン。

 

土日になると、

太鼓屋に行って太鼓作りをしている。

 

太鼓屋の仕事が

楽しそうだった印象は全くなくて、

 

むしろその逆。

 

ただでさえ大変な会社員を勤めながら、

土日も休まず太鼓屋での仕事、、、

 

いつも何か疲れていて

いつも何かイライラしている、、、

 

そんな親父だったので

私達兄弟も親父の事が怖かったし

正直嫌いだった、、、

 

当然、自分たちの「将来」って考えた時

 

太鼓屋になるって思ってた

兄弟は誰一人いませんでした。

 

よって、

兄貴も私も、弟も

 

高校を卒業すると同時に

みんな地元の企業へと普通に就職したのです。

 

そんな矢先に、

小さいころから大きな夢も目標も、

やりたい事も何も見つけられなかった私が、

 

一時は地元企業に就職したのですが、

 

はじめて「社会」というのを肌で感じた時

 

このまま、自分は

この会社で一生を終えていくのは「嫌だ」な、、、

 

と、

 

それまで何も考えず

のらりくらりと過ごしてきた人生でしたが、

 

はじめて、

何か「目標」を探したい、、、

そう思い会社を辞める決断をしたのです。

 

その時、

ただ会社を辞めたいと言っても

 

親父は絶対許してくれない、、、

 

そう思ったので、

親父、

太鼓屋の仕事を手伝うからさぁ、

 

会社を辞めさせてくれないか?

 

と、相談したのです。

 

それが、

私の「太鼓屋」人生のはじまり

 

何とも不純な動機ですし( ;∀;)

 

太鼓が好きだったわけでも

興味があったわけでも夢であったわけでもありません。

 

むしろその逆で、

 

太鼓屋の仕事を手伝いながら

次の自分の人生を探そうってぐらいにしか

 

当時はまったく考えてませんでした。

 

とは、言っても

当時は親父も会社員を勤めながら

土日だけ太鼓屋の仕事をしてましたので

 

土日に親父が来ている時に

いろいろと教えてもらって、

 

平日は私一人と留守番のおばあちゃんだけ。

 

仕事も当然なく、

給料も1年目はまったくもらえず

昼間太鼓屋で仕事をして、

夜は知人の飲食店でアルバイト、、、

 

そんな生活がスタートしました。

 

親父やおじいちゃんの時代の

私達三浦太鼓店の仕事というのは、

 

広く言えば矢作川流域を中心にした

「三河地域」の地域の祭りだったり、

神社仏閣の太鼓のお仕事♬

お祭りや祭礼というのは、

だいたいどの地域も1年に1回ですし

使う太鼓の種類も決まってるし

 

1回修理したら、次は50年後、、、

 

そんな商売だったので、

当然太鼓屋だけでの生活がままならない、、、

 

 

それが、

私がこの仕事につき始めた約20年前から

 

世の中が「太鼓」に対する

まったく新しい捉え方が生まれてきたんです。

 

それが、俗にいう「創作和太鼓」という世界です♬

同じ「和太鼓」を使うのは変わらないのだけれども、

 

太鼓を「楽器」として捉え

 

舞台ステージで様々な演奏スタイルを広げていき、

 

その新たな文化と発展が

もの凄いスピードで日本のみならず

世界中へと広がっていきました。

 

19歳でこの仕事を始めた当時、

私はそれまで太鼓に何の興味もなかったので、

 

一切太鼓を叩いたこともなかったし

バチすら握ったことがありませんでしたが、

 

仕事をしていく中で、

少しずつ三浦太鼓店のお客さんも

 

これまでの「地域」のお祭りだけの方々

だけじゃなくって、

 

創作和太鼓グループの方々が

増えていき、

 

ある時、

私の人生を変える出来事が起きるのです。

 

いつものように

言われた仕事をたんたんとこなしていると、

 

創作グループに参加されている

おばちゃんが来店され、

 

私の顔を見るなり、

 

お兄ちゃん職人さん?

若いのに仕事の後継ぎなんて偉いねぇ~♬

 

もちろん、太鼓も叩けるんでしょ!

 

そう聞かれたんです。

 

その時、

残念ながら私は一切バチも握ったことがなかったので

 

いえ、まったく太鼓は叩けないんです~

 

と返事を返した「瞬間」

 

そうか、

太鼓屋なのに太鼓が叩けないって

こんな情けない事はないな~、、、

 

地域「伝統」の太鼓は

代々受け継がれた道具や

親父から教えてもらった知識があれば

何となく同じモノは作れるかもしれないけれど、、、

 

新しい時代に生まれた

「創作和太鼓」という世界は

 

使い方だって、使う場所だって

ニーズだって全然違うはず、、、、

 

自分がその世界の事を

何も知らないのに

 

その世界で活躍している人たちの

太鼓なんて絶対作れないなぁ~

 

なんだか情けなくなったと同時に

よし!

太鼓を叩こう!

 

そう決意したのです♬

 

それが、2004年私が24歳の時

立ち上げた和太鼓零~ZERO~なのです♬

第2章 人生の転機 和太鼓零〜ZERO〜創設

太鼓をはじめられるキッカケは

人それぞれいろんな理由があると思いますが、

 

私の場合は、

自分が作る太鼓の「音」に自信と責任を持ちたかった、、

 

これだけです。

 

そうやって、

これまでなんの「興味」も「関心」も

なかった太鼓を叩くという世界に初めて

 

自らの意思で足を踏み入れるのですが

これが私の人生のすべての転機でした。

 

太鼓を叩くようになって、

何が一番大きく変わったか?

 

と、いうと

 

それは太鼓が上手に叩けるようになったことで、

太鼓の音のことが理解できるようになったことでもありません。

 

何より一番大きな変化は

太鼓が大好きになったこと♪

 

だったんです。

 

太鼓を叩くようになって、

本当にそれまでの人生で感じたことないような

 

どんな事よりも「夢中」に

なってしまうほど、太鼓の世界にどっぷりと

のめり込んでしましました♪( ´▽`)

 

 

太鼓屋とは言え、

最初はチームで使える太鼓も

当然全くなくて、、

 

小さい太鼓を、小さい車に

乗せられるだけ詰め込んで

練習場に向かう日々。

 

それでも太鼓がなくても楽しくて楽しくて

仕方ありませんでした♪

 

そんな太鼓叩き生活が始まって、

数年経った頃、、

 

だんだんとやっぱり欲が出てきて

太鼓打ちなら誰もが憧れる「大太鼓」!!

 

がどうしても欲しい!!

そう思うようになりました。

 

そこで、

当時、私たちのチームを指導してくださっていた

先生に相談したところ、

 

だったら「桶」で作ったらいいんじゃない?

 

そう言われたんです♬

 

それが、そう!この先「味噌六」にも繋がっていきますが

当店の三六-SABUROKU-が誕生したキッカケでした♬

こうして三六1号は誕生する↑

決して誰かに売るためにとか

三浦太鼓店の商売としての「新作」ではなくって

 

“自分たちのチームで使いたい太鼓を創る”

 

これが三六が誕生したキッカケなのです♪( ´▽`)

大太鼓が欲しいと思って先生に相談した時

2つの選択肢がありました。

 

1つはご存知のように、

くり貫きの太鼓で創ること。

 

やはり太鼓と言えばくり貫き!

 

物も音も良いのは当然わかってます。

 

でも、

やはり太鼓屋と言えど、

3尺を超える大太鼓をくり貫きで作るには

 

費用が非常にかかりすぎる。

 

ましてや、大きくなればなるほど

くり貫きの太鼓は「重たく」て

 

創作の和太鼓のように

常にどこかへ持ち運んで演奏するには

 

運搬、保管、コストにおいて全く向いていない、、、

 

一方で、「桶太鼓」なら

くり貫きに比べコストも安く

 

何より、軽くて持ち運びも便利!

 

そんな理由から、

三六-SABUROKU-1号は生まれたのです♬

 

先ほども伝えた通り、

 

売りたい!

商品として!

 

などと全く考えてもなかったんですが、

 

実際にこの太鼓を

作って自分たちのチームで使い出してみたら

 

三浦さん、その太鼓って

素晴らしいですね♬

 

三浦さんの商品なのですか??

 

と、お客さんから

聞かれることが増え、、

 

なんだ!

世の中の人もやっぱり自分たちと

同じような事を思っていたんだと

 

初めてわかって商品化したところ

おかげさまで、現在では

 

北は北海道、南は九州

遠くハワイやデンマークなどへも

送らせていただく太鼓になったんです。

遠くハワイまで♬↑↑

作り始めた当時は

三浦太鼓店でも「桶太鼓」なんて

 

1年に1、2台作るか作らないか?

というくらいのモノだったんですが、

 

三六を通して、

桶太鼓の「音」を一生懸命研究しながら

 

少しずつ「音作り」に対する

自信を深めて行きました。

 

 

「音作り」というのは

私たちが何より大切にしている三浦太鼓店の

経営理念でもある「活きた音」。

味噌六を語る上で

この「活きた音」作りのことを理解してもらうことが

とても大切な要素なので、

 

第3章は「活きた音」とは?

何なのか?をお話したいと思います。

 

第3章は「活きた音」とは?

 

三六を作ったり、

今ではそこから波及して

 

様々な新しい太鼓作りをしている

私たちではありますが、

 

「新しい」モノを作る上で

私たちが何より大切な教えをもらってきたのが

 

代々受け継がれてきた「古い太鼓」何です♬

 

代々受け継がれてきた古い太鼓というは、

冒頭で見てもらった三浦太鼓店の歴代の

太鼓だけの話じゃありません。

 

修理を依頼され皮を外してみると、

 

100年や200年前どころか

中には300年以上前に作られた太鼓が

 

ザラに出てくるんです♬

そんな太鼓たちには

当然一つ一つ歴史が刻まれています。

そんな中で、

私たちがこれまで様々な太鼓を修理

させてもらってきた中でも

 

もっとも歴史が古かった太鼓が

この太鼓でした↓↓

この太鼓は愛知県作手村の

白鳥神社で代々祭礼の時に使用されている古〜い太鼓♬

 

もちろん今も現役なのですが、

中を開けてみてビックリ!

 

そこには「天正」という元号が入っておりました。

天正の太鼓↑

ちょうど今年で平成最後と

言われている新たな元号と変わる年ですが

 

「天正」ってみなさん

一体どれくらい前の時代かわかりますか?

 

はい、

約450年前のことなのです。

 

中には10回の修理の記録が

残っており、

 

だいたい50年に1度のペースで

修理されていて、

 

1回目の修理の記録が天正だったので

実際に作られたのはさらにそこから

50年ほど遡った頃と推定すると

 

約500年も前に作られた太鼓だということです。

 

500年前に作られた太鼓↑

私たちだってそうそう

こんな太鼓に出会えないですし、

 

あまりに珍しいってことで

九州大学の教授がわざわざ飛行機で

見にこられたくらいです↓

そんな珍しい太鼓だったんですが、

さすがに500年という歳月、、、

 

見た目もご覧の通り

ヒビだらけで、ボロボロ、、

 

乾燥しきってましたし、

何より長年の歳月で

 

木の伸縮が進み

真上から見るとこんな形だったんです↓

真上から見るとこんないびつな形↑

分かりますよね?

 

明らかに、形がいびつに歪んでしまっていて、、、

 

 

そんな時、

ふと私は思ったんです。

 

 

こんな見た目もボロボロで

形もいびつ、、、

 

今の時代だったり

当然何か新しいモノに買い替えたり、

 

捨ててしまってもおかしくない、、、

 

それでも、

なんでこの太鼓は捨てられる事なく

 

大切に500年も受け継がれてきたんだろう?

 

なんでこの太鼓は

未だに現役でいられるんだろう??

 

って単純な疑問を抱きました。

 

そして、

その理由がよくわからないまま

無事に修理を終え、

 

その太鼓を一発叩いて見た時

私は、ハッと!!

したんです。

修理を終え叩いてみると♬

何気なく、

その太鼓を叩いてみると

 

まさに「音」が活きていたんです♬

 

 

私はその時、すべてを確信しました。

 

 

あぁこれか!と、、、

 

この「音」か!と、、、

 

この音があるからこそ

500年もの間、大切にされ受け継がれてきたんだと、、、

 

この音があるからこそ

人々の心に届いていたんだと、、、

 

「活きた音」というのは、

私のような職人だから感じられる特別な「感覚」では

決してないのです。

 

誰だってその「音」を聞けば

感じる事ができるし、

 

簡単に表現するなら

心になんの違和感もなくスーっと入ってくる音の事です♬

 

 

太鼓を一度でも叩いた事ある方

祭りや太鼓が好きでよく聞きに行かれる方だったら

 

きっと私の言う感覚が

少しは理解してもらえるんじゃないかって思います

 

なんかこの太鼓いいなぁ

なんかこの太鼓好きだなぁ

 

そういう太鼓というのは

太鼓そのもの音が「繋がって」いるので、

 

叩いた瞬間に今度は「叩き手」つながり、

 

叩き手とつながるという事は

聞いている人たちに繋がっていく。

 

そうか!

この太鼓は姿カタチはボロボロでも

 

この「音」があったからこそ

500年もの間大切にされてきたんだ!

 

だったら、

これから作る自分たちの太鼓も

 

この「音」を宿す事ができたら

もしかたら同じように人々の心に届き、

 

300年400年500年と

大切に受け継がれていく太鼓になるかもしれない!

 

そう確信したんです。

 

「温故知新」という言葉が大好きで

私も大切にしている考え方ですが、

 

私の新しい太鼓に対する創作の原点は

まさに古い太鼓が教えてくれる大切な事を軸に

 

新しいモノづくりに日々

励んでいるんです♬

 

その中で、

現代の「創作和太鼓」にとって

絶対に需要やニーズが深まるはず!

 

そう確信しながら

動き出していた三六を中心とする「桶太鼓」。

 

いよいよ味噌六にも直接的に

繋がっていく話しへと入っていきます。

 

第4章秋田伝説の桶職人、五十嵐さんとの出会い

三六太鼓のヒットに始まり、

様々な桶太鼓の可能性を広げてきた三浦太鼓店♬

様々な可能性を広げてきた三浦の桶↑

そんな三浦の桶を語る上で、

なんどもなんどもこれまで登場してきましたが

 

欠かす事のできない出会いが

そう、

 

秋田伝統工芸士、五十嵐さんとの

出会いだったんです。

当時の三浦の桶の胴はすべて

この五十嵐さんが作ってくれていました。

 

2015年まで

三浦太鼓店では皮を作る技術はありましたが

 

桶の「胴」そのものを作る技術が

なくて、

 

桶職人さんの腕を頼っておりました。

 

そんな中で、

全国各地様々な職人さんを探して探して

出会ったのがこの秋田伝統工芸士

五十嵐桶樽製作所の五十嵐修さんだったのです。

 

 

五十嵐さんの作ってくれる

桶はとにかく素晴らしかったんです。

 

何が素晴らしいか?

 

もちろん見た目や品質は当然

素晴らしかったんですが、

 

先の500年前の太鼓と全く同じ!

 

皮を張った時の音が抜群に活きていたんです♬

 

それはそれは

あまりにも素晴らしい「音」で。、

 

当時、私は

この「音」さえあれば

 

本当に500年受け継がれる太鼓だって

夢じゃない!

 

そう確信するほど素晴らしい「桶」でした。

 

 

ただ、

そんな中、唯一の不安が一つありました。

 

それは、

五十嵐さんがご高齢で後継者がいなかったこと、

 

時より、体調悪くされ

入退院を繰り返されていたこと、、、

 

一方で、五十嵐さんのおかげで

桶の受注は増えていき、、

 

お客様からいつになったら出来るのか?

と催促される日々、、、

 

このままでは

商売としても自分たちとしても

何か手を打たないとまずい、、、

 

そう思って、

まず最初に試してみたのが

 

地元の大工さんや知り合いの建具屋さんの力を借りて

「桶」っぽいものができないかという事を

いくつか試してみたんです。

さすがに大工さんも建具屋さんも

腕は確かなので、

 

すぐに桶っぽいものは

いくつかできてきて♬

 

すごい!これなら行ける!

 

そう思って、

すぐに皮を張ってみたところ、、、

 

ん、、、!?

 

違う、

何か違うこの「違和感」、、、

 

 

そう、「音」が全く活きてこなかったんです。

 

 

見た目は「桶」に近い、、

 

でも「音」は全く違う、、、

 

すでに「活きた音」の大切さを学んでいた私は

これじゃダメだとすぐに諦めました。

 

ただ、

その当時はすぐに自分たちが桶を作る!

 

という決断には全く行き着きません。

 

だって、

桶職人というのはそれだけでも

代々脈々と受け継がれた時間と知恵があるわけで、

 

いくら太鼓職人だからと言って

全く違う世界に足を突っ込むようなもの、、、

 

桶を作るなんてそんなこと私たちには

当然出来るわけないと思ってました。

 

そんな右にも左にも決断できない、、、

そんな悶々とする日々が何年か続く中、

 

「味噌六太鼓台」につながるある祭りと出会います。

 

それが四国中央市土居町の秋祭りとのご縁でした♬

四国中央市土居町の秋祭り♬

第5章四国中央市土居町秋祭りとのご縁

たまたま、この地域の

上天満太鼓台さんから

 

自分たちの太鼓を新調したいのだが、、、

 

というご相談を

インターネットを通じてお話をもらったんですが、

 

これまで当然

縁もゆかりもない地域で、

 

一体どんな太鼓を使っていて

一体どんな「音」を求められているのか?

 

お祭りの太鼓って

ただ単にその大きさや形だけじゃなくって

 

必ず地域の方々の

強いこだわりがあるので、

 

その求められる「音」を知るためには

自分たちが現地に足を運ぶしかない!

 

そう思って、

2015の9月に初めて四国へ行ったんです。

 

その時、感じた「感動」が後の

味噌六太鼓台へと繋がっていきます↓

直径12メートル、幅4メートル

重さ2トン。

 

それを100人を越える大の男たちが

命がけになって担ぎあげる。

 

いくら力のある男たち言え、

 

心を合わせ、

力を合わせ、

息を合わせないとビクともしないこの太鼓台が

 

みんなの「想い」が

一つになった瞬間にビタッと!担ぎ上がる!

この時、感じた感動は

今でも忘れません。

 

そして、

いても経ってもいられずその翌年、

 

地元岡崎の祭り男である「本多さん」を引き連れ

再びこの祭りへと訪れるのです。

ここで登場本多さん!

本多さんは、

地元岡崎の祭りを作る上で欠かすことのできない存在で

 

 

常に、三浦くん

地元の岡崎の祭りに

 

今のようなイベントみたいな祭りだけじゃなくって

 

もっともっと郷土愛が育まれて

次の世代の子供達に繋がっていく祭りがしたいねぇ

 

と、相談を受けながら実際に

いろんなことを挑戦しながら

ずっと模索し続けていました。

 

そんな本多さんだったので

この四国の素晴らし祭りをぜひ一緒に感じてもらって

 

いつか、何か

自分たちの祭りにヒントにできないかと

当時は悶々と考えてたんです。

 

 

祭りを終えて

帰りの車の中、本多さんと

 

この祭りは本当にすごいね!

岡崎の人たちにもこの祭りそのものの凄さを

 

味わってもらえたらねいいのにね、、、

 

そう言って、

2人でどうやったらこの四国の人たちを

祭りごと岡崎へ持ってこれるか!?♪( ´▽`)

 

と、

当時はまだそんなことばかり考えていました。

 

 

第6章いよいよ動き出す未来

 

何かしたいけど、

何もできない、、

 

そんな悶々とする日々の中

祭りを訪れた翌年の2016の正月明けから

 

いよいよ動き出す「決意」を固めます。

 

それは、

自社での「桶」作り。

 

当時、

まだ五十嵐さんに当店の桶作りの

すべてを頼っている状況でしたが、

 

やはり、

だんだんと入退院を繰り返される

頻度が多くなり、、

 

このままでは

本当にこの先どうなってしまうかわからない、、

 

そんな漠然とした

不安が強烈に強くなって、、

 

それまで

建具屋さんやいろんな桶作りを

試してきたけれど、

 

やっぱり、

 

活きた音作りに欠かせないのは

伝統的な「作り方」にあると確信したので、

 

 

秋田の五十嵐さんの元へ尋ねて

桶作りを教えて欲しいと

 

頼みに行きました。

 

五十嵐さんとの深いつながりは、

これまで散々私のブログで書いてきたので

あえてここではお伝えしませんが

 

奇跡とも言える五十嵐さんとの

出会いは過去のブログをぜひご覧ください

 

↓↓
五十嵐さんありがとう!

 

残念ながら、

直接五十嵐さんから桶作りを習うことは

できなかったけれど、

 

私に直接桶作りを教えてくれた

地元愛知県の桶職人である師匠から

 

その伝統的な桶作りのノウハウを

学ばせてもらうことができました♬

私が、桶作りを

やろうと決意するまでに、

 

これまでお話ししてきた

「活きた音」の大切さや、

五十嵐さん出会い、

 

そして、創作和太鼓文化という

時代性、、、

 

様々な要因が重なって

たどり着いた道でした。

 

 

これまでの人生を振り返って

たった一つの「音」を作るのに、

 

本当に、様々な気づきがありました。

 

それは一言でカンタンに

言い表すことなんて決してできないし、

 

それを感じ取った時、

私は、

 

これまで自分が得た「感動」や「経験」を

何か世の中の人たちに

 

今度は自分が役に立てることが

できないだろうか?

 

と、思うようになりました。

 

まさに、今は亡き

五十嵐さんの言葉の通り

 

その技術を広く

役立てて欲しい、、、

その言葉の通り、

 

桶を作ることの中には、

 

今の私たちに大切な「文化」や学び

経験や感動がたくさんあって、

 

どうしたら、

それを自分だけのものじゃなくて

 

世の中の人にも伝えられるかって

考えた時、

 

あの四国の祭りが頭を

よぎりました。

 

そうか、

一人のチカラでは何ともならない大きなことを

することで、

 

そこに必ず「協力」が生まれる。

 

今、自分が少しずつ

できるようになったこの桶作り、

 

これまで自分が作ったことない

大きな大太鼓を作ると言ったら、

 

きっと誰かが協力してくれて

自分が伝えたかった「感動」を

感じてもらえるんじゃないか?って

 

思ったんです。

 

そして、

私は2016年の11月に

 

一人じゃできない、

これまで自分でも作ったことすらない

 

大きな桶太鼓を作ろうと

決意します♬

 

そして、

その時に頭をよぎったのが

 

地元岡崎のそう「八丁味噌」だったです。

第7章いよいよ生まれる「味噌六太鼓」の産声

 

八丁味噌の仕込み桶も

私たちが日々作っている桶太鼓も

同じ「杉」からできているのを知っていました。

 

そして、

何年か前から

 

八丁味噌さんから

実はこの桶も150年ほど使うと

 

材料が朽ちてしまって使えない、、、

 

今は、廃棄するしか方法がないので

何か活用されたい方がいたら譲ります、、、

 

と、

 

もう5、6年前から

言われていたのがずっと頭の片隅にあって、

 

そうだ!

 

この八丁味噌の古い桶の材料を

再利用できれば!

 

ここ地元岡崎にしかない

唯一無二の太鼓が作れるかもしれない!

 

そう思い立って、

 

思い立った時には

すでにカクキュー八丁味噌の

野村さんに電話をしていました♬

 

野村さん、

以前より言われていたあの古い桶の材料って

 

今でももらうことできますか?

 

実は、

大きな太鼓に再利用できないかと

考えてるんです!

まだ頭の中でもう相談間ですが♪( ´▽`)

 

そう尋ねると

野村さんはすぐにそれは面白いですね!

 

そもそも妄想できないことは

カタチにできませんし!

 

と、即答で嬉しいお返事をいただくことが

できたんです♬

 

思いたったら即行動!の私は

翌日、早速八丁味噌さんを尋ねます。

 

するとお目あての材料が

こんな感じでバラバラになって廃棄される寸前でした。

私は、

組んである桶をそのまま再利用

するんじゃなくて、

 

先ほどもお話しした通り、

桶を作る「工程」そのものに

 

感動があり、文化があり

価値がある、、、

 

それを多くの人たちに感じてもらいたかったので

 

味噌桶の「底板」の部分だけを

もらってきて、

 

ここから一から削り出して

桶をみんなで作ろう!と考えたんです♬

 

 

そして、このしっかりした

厚みのある底板を見た時、

よし!

 

これなら本当に作れるかもしれない!

そう確信して

 

まず真っ先にこの人に

そのことを伝えないと、、

 

そう思って電話を取りました。

 

 

その方こそ、

そう四国へ一緒に行き、

岡崎の祭りをこのなく愛する本多さんだったんです。

実は、

まだ私の頭の中でこの時点では

 

地元岡崎の八丁味噌の古い桶材を使って

大太鼓を作る!!

 

と言うことだけでしたので、

 

本多さん!

八丁味噌の桶を使って大太鼓を作るよ!

 

きっと、岡崎の象徴になるから

太鼓作りをぜひ手伝って欲しい!

 

そう電話したら、

本多さんが

 

三浦くん、

それって担げない??

 

そう言われたんです。

 

担ぐ??

 

そうか!!

 

担ぐか!!!

 

担ぐか!!!!!!

 

それだーー!!!

あの時、

四国からの帰り道、、、

 

本多さんと悶々としながら

地元岡崎でもあの「感動」を感じてもらいたい、、

 

でも、

四国の人たちを連れてきても

どれだけそれがすごくても

 

やっぱり所詮それは四国のモノだから

意味がない、、、

 

地元岡崎の人たちが

自分たちの地域を郷土を愛せるモノでないと

 

なんの意味もない、、、

 

岡崎でしか成し得ないモノって

なんだ!?

 

なんなんだ!?

 

と、ずーっと考え続けてきた事が

この時、

この瞬間にすべてが繋がったんです。

 

それだ!!!!

 

本多さん!

それだ!!!!

 

そうして、

様々な奇跡とも言えるつながりを経て

 

「味噌六」作りがいよいよ

スタートしたのです♬

大きなモノに向かう時に

生まれる「協力」♬助け合い、、

そうやって、

少しずつ人が人を呼び

その輪が広がっていく、、、

これまでの太鼓人生で

私が感じてきたすべての経験を

 

ここに注ぎこんでいきました。

 

まだ「味噌六」がこの世に

誕生する前に作った企画書に

 

このプロジェクトに対する

その想いが綴られています。

 

「感動」を通して、人の心と心がつながる場所作り。

こうして、誕生した

「味噌六太鼓」の感動や数々の奇跡は

もうすでにみなさんご存知の通りです♬

 

昨年の祭りの様子も

youtubeで紹介されてます♬

これまでの私の人生は、

すべて心動く「感動」が

 

原点にありました。

 

受け継がれた「音」から

「活きた音」を感じた時の「感動」♬

 

受け継がれた「技」から

積み重ねられてきた「知恵」を感じた時の「感動」♬

 

一人で成し得ない大きなモノに向かう時、

人と人が協力し助け合った時に生まれる「感動」♬

 

 

これらが、

すべて「一つ」になったのが

 

「味噌六太鼓台」なのです。

昨年2号機が完成し、

 

今年はいよいよ3号機の製作が

スタートします♬

 

一体何台作るんだ!?

 

と、いうそんな声も

聞こえてきますが♪( ´▽`)

 

もう、

味噌六が誕生する前とは違って

 

みんなにとっての

「味噌六」が育っているので

 

この先何台増えていくのかは、

きっと関わってくださるみなさんの

「情熱」の数に比例していくんだと思ってます。

 

3号を製作の目前、

味噌六3年目の夏を前に

 

改めて、今回

このような話を書かせてもらったのは

 

一つの物事が誕生するキッカケは、

 

たった一人の人の人生や

経験で生まれるのでは決してないってことを

お伝えしたかったからです。

 

私一人の人生の経験なんて

ほんの些細なものですし、

 

私一人ができることなんて

もっと、もっとちっぽけです。

 

何年も、何十年も、何百年も

何人も、何十人、何千人、何万人も

 

繋がって、今の私があるし

今の私たちがあるんです。

 

一つの物事を生み出すに、

一人の力なんて微々たるものですし

一人の能力なんて限界があります。

 

たくさんのつながり、たくさんのご縁

そんな様々な要因の先に

コップの水が溢れるように何かが

生まれるんでしょうね♬

 

そのことを常に忘れず「感謝」して

今年も岡崎の夏を盛りあげていきたいと思います♬

 

7章にも渡る長編

お読みいただき感謝します。

 

いよいよ明後日

10日の日曜から3号の製作スタートします!

 

滝山寺でお待ちしております♬

今年もどうぞよろしくお願いいたします

 

 

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この記事を書いた人

  • 三浦 和也(六代目彌市)

    三浦 和也(六代目彌市)

    (昭和55年1月25日岡崎生まれ。AB型。和太鼓零〜ZERO〜代表)
    和太鼓と嫁に年中夢中!
    実は、長男ではなく次男坊。幼い頃は太鼓も親父も嫌いだった私が太鼓に目覚めたのは24歳の時。
    敷かれたレールが目の前になかったからこそ、今描ける野望は和太鼓を通して、世界を救うこと!4人の息子たちもみんな太鼓打ち!受け継いだ大切な「伝統」を後世へとつないでいきたいと思っています。

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